高校の図書館で良い頭になりたい

「こういう本が高校図書館に入っていると生徒(である自分)の頭が良くなるんじゃないか」という書籍を、高校生になりかわって提案してメモしていきます。

原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』

内容の妥当性が疑わしい箇所を、抹消記号にていったん抹消しました。(2019/05/28)

一年ほど以前にここのブログで公開していた記事を再掲します。今後加筆修正変更削除の可能性があります。

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

 この本は高校の図書館に入っていてほしい。ただしタイトルには不満がある。そのことを書く。追記、なお日本語学の文法では主語という用語をほとんど使わない。このことは特に明記しておかないと気づかれにくいので最初に書く。この本のように「主語」という語を使う場合にはそれは「主格」の意味で使っており、そもそもあまり重きが置かれていないから呼び方にもこだわっていないのだと受け取れる。

まずこの本が高校図書館に入っていてほしい理由である。一つは、「大学で学術的に研究されている日本語文法」について高校生が知るための手がかりがあまり多くないから、というものだ。もう一つは、日本語の文法についてすごくわかったような気にさせてくれるというものだ。

高校図書館に入っていてほしい理由その一は、「大学で学術的に研究されている日本語文法」について高校生が知るための手がかりがあまり多くないから、というものだ。中学までで教わる現代日本語の文法は、「大学で学術的に研究されている現代日本語文法」とはけっこう異なっている。したがって学校の授業は参考にならない。中学文法は高等学校での古典文法学習の予行練習のために行なわれているのだ。そういうわけで、高校生のいちばん身近にある手がかりは文庫本だ。ところが原沢氏のこの文庫本が出版されるまでは、状況は決して芳しいものではなかった。日本語文法の研究を学術的に行なっているのは、主に、国語学・日本語学・言語学である。その中で、「大学で学術的に研究されている日本語文法」の中心にあるのは日本語学だ。あるいは日本語学寄りの言語学だ。ただし現在では国語学も「日本語学」と名乗ることが多くなっているので、それと紛らわしくないようにするためには、「寺村文法や三上文法」がベースになっている日本語学が中心だ、という言い方にしたほうが良いかもしれない。ところが少し以前までの時期だと、その種の文法に立脚した文庫本は、佐々木瑞枝氏のものだと『外国語としての日本語その教え方・学び方』というタイトルであり、荒川洋平氏のものだと『日本語という外国語』というタイトルである。これらは「アカデミックな現代日本語文法について知りたい」と考える高校生がまっさきに手に取るようなタイトルとは言えないだろう。そういうわけで今までの時期では、国語学大野晋氏の『日本語の文法を考える』か、さもなければ言語学町田健氏の『まちがいだらけの日本語文法』という変化球タイプの文庫本しか見当たらなかったわけだ。なので、原沢氏のこの書が文庫本として出版されたことで、それを知りたい高校生にふさわしいタイトルと中身をもつ本が登場したようやくかっこうになる。文庫本の形で流通しているかどうか、というのはとても重要な点なのだ。

高校図書館に入っていてほしい理由その二は、この本の第一章・第二章が、日本語の文法についてすごくわかったような気にさせてくれるというものだ。主語と主題の違いとか、格助詞・格関係そして必須成分と随意成分という概念装置は、日本語の文法についてわかった気にさせてくれる。この自信はとても大きいものであり、これから先、大学生になって仮に何種類もの日本語文法や学説を学習することになっても混乱しないですむのではないか、という気になれる。この自信は小さくないのだ。また、必須成分の間には優先順位のようなものはない、という考えは、ライティングに役立つ。たとえば本多勝一氏や酒井聡樹氏の本で文章の書き方を学んだ場合、その文法的な裏付けとなってくれると言える。反対に、もしこういった日本語文法を知らないと「主語と述語」という概念に強く拘束されるようになる。これだと、「まず最初に主語を書かなくてはいけない」という発想になりやすいので、「読みやすい日本語文」になりにくくなる。そういう可能性を、この書は狭めてくれ、より読みやすい日本語を書くための助けになる。少なくともその気にはなれる。

反面、この書にはいくつかの不満があるけれど、今はタイトルに対する不満に絞る。この本は「日本人のための日本語文法入門」と題してはいるものの、実際には「日本語文法学習志望者のための日本語文法入門」でしかないのではないか。つまり日本語学の日本語文法に入門することを最初から決めているような読者にしか訴求力をもたないのではないのか、という疑念が筆者はどうしても残るのだ。もしタイトルを「日本人のための」にするのであれば、その場合「英文法や学校文法を学んでしまった日本人のための」ということを含まないとまずダメだ。つまり「英文法や学校文法を学んでしまった」日本人があっと驚くような意外性と説得力をもつ必要がある。その点がこの本は弱いのだ。以下例を二つほど挙げてみる。

この本に欠けているタイプの内容の例1はこうだ。「お金が欲しい。」という文を考えてみよう。多くの日本人はこの文を「省略されているけど“私は”が主語であり、“お金が”が目的語であり、“欲しい”が動詞である」とおそらく考える。しかし日本語学ではたぶんそう考えない。まず確実に言えるのは「“欲しい”は形容詞である」ということだ。敬体で言うとき「欲しいです」とは言うけど「欲しいます」とは言わない、だったらそれは形容詞だ。(だから例えば「ない」は形容詞だし、「ある」は動詞だ。)次に確実に言えるのは「私はお金が欲しい。」というのは非文である、というものだ。そんな文は通常は使われない。なぜか。日本語学では「彼はお金が欲しい。」とか「彼女はお金が欲しい。」というのはまず非文と見なす。三人称には、「欲しい」という「感情を表す」形容詞のある種のものは裸のままでは使えないからだ(例「悲しい」)。次に「あなたはお金が欲しいですか?」と「私はお金が欲しい。」というのを非文と見なす。こんな言い方は特殊な場合以外しないからだ。「お金が欲しいですか?」と「お金が欲しい。」、この二つの言い方こそが正しい。疑問文なら二人称、平叙文なら一人称だ。だから「あなたは」「あなたがたは」「わたしは」「わたしたちは」などの要素は不要でありむしろ有るべきではない。単数か複数かも状況でわかるからやはり不要なのだ。なのでこの場合「私は」というのは原沢氏の著書でいう「随意成分」ですらないことがわかる。そんな成分は要らないだけでなく、むしろあったらいけない成分だからだ。一方「お金が」は必須成分だ。そして「が格」であるのだから、もし強いて「主語」を決めたいのなら、「お金が」が主語だというほかない。日本語学ではきっとそのような説明を与えるだろう。この本に欠けているのは、こういうタイプの例である。この説明が意外であるのは、英語の場合“I want the money.”、“You want the money.”、“He wants the money.”、“She wants the money.”の4つがおそらくすべて成立する正しい文だからだ。そこで調べてみたら、“He wants the money.”にはweblio:he wantsを含む例文一覧では「お金を欲しがっています。」という和訳が与えられており、goo辞書:wantの意味では“She is always wanting something new.”には「彼女は常に何か新しいものを欲しがっている」という和訳が与えられている。日本語学の主張に忠実な訳文である。つまり三人称の場合は、「欲しがる」という(感情を表す形容詞ではなく)そぶりをあらわす動詞を使うなら適切なのである。英語のwantは一人称から三人称まで同じように使うことができるが、日本語の「欲しい」はそうではない、ということが言えるわけだ。そのことを少しお手軽にだが確認することができた。こういう例がこの原沢氏の本には欠けていて、通常の日本人には意外性や訴求力が弱いのである。

この本に欠けているタイプの内容の例2はこうだ。そもそも日本人が日本語文法に関心をもつトピックの相当上位にくるだろうものに「ねじれ文」というものがある。たとえば文章のねじれを正す|日本語校正サポートに記載されている例だと「私の日課は、毎日4社の新聞全てに目を通します。」というのがねじれ文の例である。日本人向けの通常の日本語ライティングの説明だと「主語と述語がねじれている」といった説明がほどこされる。さて、ねじれ文全般に対してこの原沢の日本語学の本は弱いと思うし、それは日本語学全般の問題でもあるかもしれない。しかし今はこのねじれ文そのものではなく、それを正しく改めたという例文のほうを参照してみる。それは「私の日課は、毎日4社の新聞に目を通すことです。」という例文である。これに対して、先の原沢本はあまり良い説明を与えることができないように思える。すなわち、述語が動詞や形容詞の場合には、「必須成分」という概念はなかなか有効に思えたのだが、述語が名詞であるようなこの文の場合、必須成分という概念が使い勝手が良いかは疑問なのである。

p31の表によると、述語が名詞の文の場合「が格」のみ必須成分である、というタイプしか載っていない。そうすると、この正解の文は「私の日課が毎日4社の新聞に目を通すことです。」という文のうち、「私の日課が」の箇所を主題化して「私の日課は、毎日4社の新聞に目を通すことです。」という文として成形された、といった説明が与えられるだろう。しかし、「私の日課が毎日4社の新聞に目を通すことです。」という素材となった文がどうにも不自然である、と感じる人は多いのではないか。

そこで、日本語学の他の本を少し探ってみる。日本語記述文法研究会編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009、くろしお出版)の「とは類」についてのp230-231に類似例文を探ってみると、あったあった。筆者はまるきり素人であるがその素人目に見る限り、「とは類」の例文には「と」を省略できる度合いに差があるようだ。検討してみよう。ただし例文は変える。さて、客観的な定義を与えるような「昆虫とは六本足の動物である。」という例文の場合「昆虫は六本足の動物である。」と「と」を省略はできるが、しないほうがより文意が伝わりやすい。個別状況を表す「今の“トランプ”とはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」という例文の場合もそれに近い。「と」を省略して「今の“トランプ”はゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」とできるが、「と」がある方が文意が伝わりやすい。それに対して「人生とは楽しいものだ。」という私的な評価を与えるような場合「人生は楽しいものだ。」と「と」を省略しても、文意の伝わりやすさがほとんど変わらない。これらの例文のより明快な形として「というのは」という要素を含むものも考えることができる。その場合各々「昆虫というのは六本足の動物である。」「今の“トランプ”というのはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」「人生というのは楽しいものだ。」というふうな文が成立し、文意がより伝わりやすくなる。そして、先のねじれ文の正解とされた例文も、このタイプの一種ではないかと推察されるのだ。すなわち「私の日課というのは毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」が母体であると言いうることになる。そしてこの場合、「私の日課は毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」というふうに「というの」を削除してもほとんど文意の伝わりやすさは変わらないので、この例文は「人生は楽しいものだ。」のほうに近いことがわかる。

そこまでわかると、「私の日課というのは毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」「人生というのは楽しいものだ。」に関しては、日本語学はがんばることが可能になる。つまりこれらの例文は「“私の日課というのは(私が)毎日4社の新聞全てに目を通す”+ことです。」「“人生というのは(誰もが)楽しい”+ものだ。」というふうにして、「主語」は潜在的にのみ存在し、「私の日課は」「人生は」というのは「主語」ではなく「主題」である、というふうに主張し続けることが可能なのである。もちろん、日本語学を学んだことのない人ならば全く違うように説明するだろう。つまり「私の日課」「人生」が「主語」であり、「私の日課=毎日4社の新聞全てに目を通すこと」「人生=楽しいもの」という主述関係が成立している、と多くの人は見なすのである。そしてこれと同じことが「昆虫とは六本足の動物である。」「今の“トランプ”とはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」にも適用できる、と主張するのである。他方、この二つの例文(「昆虫」「トランプ」)に日本語学がどのような説明を与えるかはわからない。確かなのは「昆虫が六本足の動物である。」「今の“トランプ”が人名である。」といった例文は不自然であり、これらが潜在していると主張することはできそうにないことだ。ともかく、「通常の日本人」がいかにも主語述語の概念対を使いたがりそうなこういった例文に対して、それとは違った説明を与えてこそ、「日本人のための日本語文法」を堂々名乗ることができるのではないか、と筆者は思うのである。

ここで見られた日本語学の弱点らしきものはこうだ。まず、述語が名詞である場合の必須成分に関してあまり言及をしていなかったという点が一つ。今回の場合は、「結局、述語は名詞ではなかった」ということになるだろう(「通す」「楽しい」が述語と見なされた)。次に、「とは」「というのは」を用いる例文に関して、これらのうち「と」「というの」を省略しやすい場合としにくい場合という違いに関して、日本語学(先のくろしお出版の本)があまり追求していなそうに見えたという点が二つ。そして三つめが、日本人の比較的関心の高いねじれ文に関する言及や追求が見られないという点である。

そういうわけで、この本にはタイトルに不満もあり、限界も多少あると思った。この本の限界なのか日本語学全体の限界なのかは筆者にはよくわからないし、そもそもど素人である筆者の考察が誤っている可能性もむろんある。とここまで書いておいてなんだが、もちろんこの原沢の本は高校の図書館に入っていたほうが良い。ただし他の日本語学や日本語文法の本も何冊かあったほうが良い(追記:金谷武洋氏の著作は不要)。ともあれ上記のように日本語学の弱点らしきものを構想することができるようになったのは、この原沢本があったからこそである。そして上記のように日本語学の弱点を考える作業こそが、実は日本語学の研究そのものであると言ってよいのである。

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