高校の図書館で良い頭になりたい

「こういう本が高校図書館に入っていると生徒(である自分)の頭が良くなるんじゃないか」という書籍を、高校生になりかわって提案してメモしていきます。

板倉聖宣『世界の国ぐに』

世界の国ぐに (社会の科学入門シリーズ)

世界の国ぐに (社会の科学入門シリーズ)

この頁は現在編集途中です。

今回から方針をがらりと変えて、量産しやすいやり方にしてみる。そこで「書籍に出て来た重要語句」の情報を中心にしてみる。

第2部が重要なので第2部を先におこなう。まず「独立国」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:独立国)。国際法によって決まるらしい。台湾など「独立国」であるか否かが判断が分かれる国が数か国あるらしい。また「国連加盟国」(wiki:国際連合加盟国)とは異なる概念であるとのことらしい。

「独立国」には「王国」(wiki:王国)と「共和国」(wiki:共和国)の二種類があるらしい。「王国」と関係の深い概念は「王」(wiki:王)、「世襲」(wiki:世襲)であり、「共和国」と関係の深い概念は「元首」(wiki:元首)、「選挙」wiki:選挙)であるようだ。なお「王」は「元首」の一種であるという関係である。

その項目での解説中に「王位継承権」(wiki:王位継承)、「王政復古」(wiki:王政復古)、「侵略」(wiki:侵略)、「議会」(wiki:議会)、「革命」(wiki:革命)、「名誉革命」(wiki:名誉革命)、「植民地支配」(wiki:植民地)、「憲法」(wiki:憲法)、「立憲君主制」(wiki:立憲君主制)、「絶対王政」(wiki:絶対王政)などの語が使用される。このうち「名誉革命」は当該文中では「無血革命」の意味で使用されているように見受けられる。また「連合する」という語も出てくるが、これはいわゆる「連合国」(wiki:連合国)の「連合」とは異なり、「統合して一つの国になること」の意味のようである。

 

 

         

原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

日本人のための日本語文法入門 (講談社現代新書)

 この本は高校の図書館に入っていてほしい。ただしタイトルには不満がある。そのことを書く。追記、なお日本語学の文法では主語という用語をほとんど使わない。このことは特に明記しておかないと気づかれにくいので最初に書く。この本のように「主語」という語を使う場合にはそれは「主格」の意味で使っており、そもそもあまり重きが置かれていないから呼び方にもこだわっていないのだと受け取れる。

まずこの本が高校図書館に入っていてほしい理由である。一つは、「大学で学術的に研究されている日本語文法」について高校生が知るための手がかりがあまり多くないから、というものだ。もう一つは、日本語の文法についてすごくわかったような気にさせてくれるというものだ。

高校図書館に入っていてほしい理由その一は、「大学で学術的に研究されている日本語文法」について高校生が知るための手がかりがあまり多くないから、というものだ。中学までで教わる現代日本語の文法は、「大学で学術的に研究されている現代日本語文法」とはけっこう異なっている。したがって学校の授業は参考にならない。中学文法は高等学校での古典文法学習の予行練習のために行なわれているのだ。そういうわけで、高校生のいちばん身近にある手がかりは文庫本だ。ところが原沢氏のこの文庫本が出版されるまでは、状況は決して芳しいものではなかった。日本語文法の研究を学術的に行なっているのは、主に、国語学・日本語学・言語学である。その中で、「大学で学術的に研究されている日本語文法」の中心にあるのは日本語学だ。あるいは日本語学寄りの言語学だ。ただし現在では国語学も「日本語学」と名乗ることが多くなっているので、それと紛らわしくないようにするためには、「寺村文法や三上文法」がベースになっている日本語学が中心だ、という言い方にしたほうが良いかもしれない。ところが少し以前までの時期だと、その種の文法に立脚した文庫本は、佐々木瑞枝氏のものだと『外国語としての日本語その教え方・学び方』というタイトルであり、荒川洋平氏のものだと『日本語という外国語』というタイトルである。これらは「アカデミックな現代日本語文法について知りたい」と考える高校生がまっさきに手に取るようなタイトルとは言えないだろう。そういうわけで今までの時期では、国語学大野晋氏の『日本語の文法を考える』か、さもなければ言語学町田健氏の『まちがいだらけの日本語文法』という変化球タイプの文庫本しか見当たらなかったわけだ。なので、原沢氏のこの書が文庫本として出版されたことで、それを知りたい高校生にふさわしいタイトルと中身をもつ本が登場したようやくかっこうになる。文庫本の形で流通しているかどうか、というのはとても重要な点なのだ。

高校図書館に入っていてほしい理由その二は、この本の第一章・第二章が、日本語の文法についてすごくわかったような気にさせてくれるというものだ。主語と主題の違いとか、格助詞・格関係そして必須成分と随意成分という概念装置は、日本語の文法についてわかった気にさせてくれる。この自信はとても大きいものであり、これから先、大学生になって仮に何種類もの日本語文法や学説を学習することになっても混乱しないですむのではないか、という気になれる。この自信は小さくないのだ。また、必須成分の間には優先順位のようなものはない、という考えは、ライティングに役立つ。たとえば本多勝一氏や酒井聡樹氏の本で文章の書き方を学んだ場合、その文法的な裏付けとなってくれると言える。反対に、もしこういった日本語文法を知らないと「主語と述語」という概念に強く拘束されるようになる。これだと、「まず最初に主語を書かなくてはいけない」という発想になりやすいので、「読みやすい日本語文」になりにくくなる。そういう可能性を、この書は狭めてくれ、より読みやすい日本語を書くための助けになる。少なくともその気にはなれる。

反面、この書にはいくつかの不満があるけれど、今はタイトルに対する不満に絞る。この本は「日本人のための日本語文法入門」と題してはいるものの、実際には「日本語文法学習志望者のための日本語文法入門」でしかないのではないか。つまり日本語学の日本語文法に入門することを最初から決めているような読者にしか訴求力をもたないのではないのか、という疑念が筆者はどうしても残るのだ。もしタイトルを「日本人のための」にするのであれば、その場合「英文法や学校文法を学んでしまった日本人のための」ということを含まないとまずダメだ。つまり「英文法や学校文法を学んでしまった」日本人があっと驚くような意外性と説得力をもつ必要がある。その点がこの本は弱いのだ。以下例を二つほど挙げてみる。

この本に欠けているタイプの内容の例1はこうだ。「お金が欲しい。」という文を考えてみよう。多くの日本人はこの文を「省略されているけど“私は”が主語であり、“お金が”が目的語であり、“欲しい”が動詞である」とおそらく考える。しかし日本語学ではたぶんそう考えない。まず確実に言えるのは「“欲しい”は形容詞である」ということだ。敬体で言うとき「欲しいです」とは言うけど「欲しいます」とは言わない、だったらそれは形容詞だ。(だから例えば「ない」は形容詞だし、「ある」は動詞だ。)次に確実に言えるのは「私はお金が欲しい。」というのは非文である、というものだ。そんな文は通常は使われない。なぜか。日本語学では「彼はお金が欲しい。」とか「彼女はお金が欲しい。」というのはまず非文と見なす。三人称には、「欲しい」という「感情を表す」形容詞のある種のものは裸のままでは使えないからだ(例「悲しい」)。次に「あなたはお金が欲しいですか?」と「私はお金が欲しい。」というのを非文と見なす。こんな言い方は特殊な場合以外しないからだ。「お金が欲しいですか?」と「お金が欲しい。」、この二つの言い方こそが正しい。疑問文なら二人称、平叙文なら一人称だ。だから「あなたは」「あなたがたは」「わたしは」「わたしたちは」などの要素は不要でありむしろ有るべきではない。単数か複数かも状況でわかるからやはり不要なのだ。なのでこの場合「私は」というのは原沢氏の著書でいう「随意成分」ですらないことがわかる。そんな成分は要らないだけでなく、むしろあったらいけない成分だからだ。一方「お金が」は必須成分だ。そして「が格」であるのだから、もし強いて「主語」を決めたいのなら、「お金が」が主語だというほかない。日本語学ではきっとそのような説明を与えるだろう。この本に欠けているのは、こういうタイプの例である。この説明が意外であるのは、英語の場合“I want the money.”、“You want the money.”、“He wants the money.”、“She wants the money.”の4つがおそらくすべて成立する正しい文だからだ。そこで調べてみたら、“He wants the money.”にはweblio:he wantsを含む例文一覧では「お金を欲しがっています。」という和訳が与えられており、goo辞書:wantの意味では“She is always wanting something new.”には「彼女は常に何か新しいものを欲しがっている」という和訳が与えられている。日本語学の主張に忠実な訳文である。つまり三人称の場合は、「欲しがる」という(感情を表す形容詞ではなく)そぶりをあらわす動詞を使うなら適切なのである。英語のwantは一人称から三人称まで同じように使うことができるが、日本語の「欲しい」はそうではない、ということが言えるわけだ。そのことを少しお手軽にだが確認することができた。こういう例がこの原沢氏の本には欠けていて、通常の日本人には意外性や訴求力が弱いのである。

この本に欠けているタイプの内容の例2はこうだ。そもそも日本人が日本語文法に関心をもつトピックの相当上位にくるだろうものに「ねじれ文」というものがある。たとえば文章のねじれを正す|日本語校正サポートに記載されている例だと「私の日課は、毎日4社の新聞全てに目を通します。」というのがねじれ文の例である。日本人向けの通常の日本語ライティングの説明だと「主語と述語がねじれている」といった説明がほどこされる。さて、ねじれ文全般に対してこの原沢の日本語学の本は弱いと思うし、それは日本語学全般の問題でもあるかもしれない。しかし今はこのねじれ文そのものではなく、それを正しく改めたという例文のほうを参照してみる。それは「私の日課は、毎日4社の新聞に目を通すことです。」という例文である。これに対して、先の原沢本はあまり良い説明を与えることができないように思える。すなわち、述語が動詞や形容詞の場合には、「必須成分」という概念はなかなか有効に思えたのだが、述語が名詞であるようなこの文の場合、必須成分という概念が使い勝手が良いかは疑問なのである。

p31の表によると、述語が名詞の文の場合「が格」のみ必須成分である、というタイプしか載っていない。そうすると、この正解の文は「私の日課が毎日4社の新聞に目を通すことです。」という文のうち、「私の日課が」の箇所を主題化して「私の日課は、毎日4社の新聞に目を通すことです。」という文として成形された、といった説明が与えられるだろう。しかし、「私の日課が毎日4社の新聞に目を通すことです。」という素材となった文がどうにも不自然である、と感じる人は多いのではないか。

そこで、日本語学の他の本を少し探ってみる。日本語記述文法研究会編『現代日本語文法5 第9部とりたて 第10部主題』(2009、くろしお出版)の「とは類」についてのp230-231に類似例文を探ってみると、あったあった。筆者はまるきり素人であるがその素人目に見る限り、「とは類」の例文には「と」を省略できる度合いに差があるようだ。検討してみよう。ただし例文は変える。さて、客観的な定義を与えるような「昆虫とは六本足の動物である。」という例文の場合「昆虫は六本足の動物である。」と「と」を省略はできるが、しないほうがより文意が伝わりやすい。個別状況を表す「今の“トランプ”とはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」という例文の場合もそれに近い。「と」を省略して「今の“トランプ”はゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」とできるが、「と」がある方が文意が伝わりやすい。それに対して「人生とは楽しいものだ。」という私的な評価を与えるような場合「人生は楽しいものだ。」と「と」を省略しても、文意の伝わりやすさがほとんど変わらない。これらの例文のより明快な形として「というのは」という要素を含むものも考えることができる。その場合各々「昆虫というのは六本足の動物である。」「今の“トランプ”というのはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」「人生というのは楽しいものだ。」というふうな文が成立し、文意がより伝わりやすくなる。そして、先のねじれ文の正解とされた例文も、このタイプの一種ではないかと推察されるのだ。すなわち「私の日課というのは毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」が母体であると言いうることになる。そしてこの場合、「私の日課は毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」というふうに「というの」を削除してもほとんど文意の伝わりやすさは変わらないので、この例文は「人生は楽しいものだ。」のほうに近いことがわかる。

そこまでわかると、「私の日課というのは毎日4社の新聞全てに目を通すことです。」「人生というのは楽しいものだ。」に関しては、日本語学はがんばることが可能になる。つまりこれらの例文は「“私の日課というのは(私が)毎日4社の新聞全てに目を通す”+ことです。」「“人生というのは(誰もが)楽しい”+ものだ。」というふうにして、「主語」は潜在的にのみ存在し、「私の日課は」「人生は」というのは「主語」ではなく「主題」である、というふうに主張し続けることが可能なのである。もちろん、日本語学を学んだことのない人ならば全く違うように説明するだろう。つまり「私の日課」「人生」が「主語」であり、「私の日課=毎日4社の新聞全てに目を通すこと」「人生=楽しいもの」という主述関係が成立している、と多くの人は見なすのである。そしてこれと同じことが「昆虫とは六本足の動物である。」「今の“トランプ”とはゲームの名前ですか、それとも人名ですか?」にも適用できる、と主張するのである。他方、この二つの例文(「昆虫」「トランプ」)に日本語学がどのような説明を与えるかはわからない。確かなのは「昆虫が六本足の動物である。」「今の“トランプ”が人名である。」といった例文は不自然であり、これらが潜在していると主張することはできそうにないことだ。ともかく、「通常の日本人」がいかにも主語述語の概念対を使いたがりそうなこういった例文に対して、それとは違った説明を与えてこそ、「日本人のための日本語文法」を堂々名乗ることができるのではないか、と筆者は思うのである。

ここで見られた日本語学の弱点らしきものはこうだ。まず、述語が名詞である場合の必須成分に関してあまり言及をしていなかったという点が一つ。今回の場合は、「結局、述語は名詞ではなかった」ということになるだろう(「通す」「楽しい」が述語と見なされた)。次に、「とは」「というのは」を用いる例文に関して、これらのうち「と」「というの」を省略しやすい場合としにくい場合という違いに関して、日本語学(先のくろしお出版の本)があまり追求していなそうに見えたという点が二つ。そして三つめが、日本人の比較的関心の高いねじれ文に関する言及や追求が見られないという点である。

そういうわけで、この本にはタイトルに不満もあり、限界も多少あると思った。この本の限界なのか日本語学全体の限界なのかは筆者にはよくわからないし、そもそもど素人である筆者の考察が誤っている可能性もむろんある。とここまで書いておいてなんだが、もちろんこの原沢の本は高校の図書館に入っていたほうが良い。ただし他の日本語学や日本語文法の本も何冊かあったほうが良い(追記:金谷武洋氏の著作は不要)。ともあれ上記のように日本語学の弱点らしきものを構想することができるようになったのは、この原沢本があったからこそである。そして上記のように日本語学の弱点を考える作業こそが、実は日本語学の研究そのものであると言ってよいのである。

小熊英二『誰が何を論じているのか: 現代日本の思想と状況』

 こんな本が出版されてしまった以上、このブログで扱わないわけにはいかない。この本は高校の図書館に入れてほしい、というのが一瞥しての印象である。これから読む。しばらくかかるだろう。

酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために』補足

これからレポート・卒論を書く若者のために

これからレポート・卒論を書く若者のために

 酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために』(2007、共立出版)は高校の図書館に入っていて良い本だ。だがこの本に書かれていることを実行することは相当に難事である。

この本は学術的問題に対して学術的な回答を与えるようなレポートを書くことを主張している。これが存外難事である。少なくとも剽窃になってしまうことは避ける必要があるからだ。たとえばディズニーランドのゾーニングに関して、大学生が自ら調べ自ら考えたことによってある「発見」をしたとする。そのとき、それがたとえば大澤真幸『資本主義のパラドックス』に書かれている内容と偶然全く同じだったら良くないレポートである。自分で考えた結果同じ結論に達している場合は、ちゃんとこの文献に言及する必要がある。そして大澤の見解に賛成である、というような書き方をする必要がある。

同じようにして、たとえば「頭脳警察のパンタの政治的メッセージと音楽上の特徴との密接な関連」に関して南田勝也の『ロックミュージックの社会学』と偶然同じ結論にたどりついていないかどうか、くらいはあらかじめ裏をとっておく必要がある。「なぜ小学校高学年以上くらいの女子がジャニーズタレントに夢中になるのか」に関して、たとえば小倉千加子『オンナらしさ入門(笑)』と偶然同じことを発見したり主張していないかくらいは裏をとっておく必要があるだろう。「妖怪と幽霊がどう違うか」というテーマに関して、宮田登小松和彦が何かすでに議論をしていないかどうか、とかそのくらいの裏をとる必要はあるし、「コボちゃん作文の国語科における効能」について何か発見をしたというときに、中川敏『異文化の語り方』と同じことを偶然主張してしまっていないか、くらいは裏をとる必要がある。要するに、自分が議論や問題解決しようという話題について、「すでに誰がどこに論じているか」の知識、これが大学生には大幅に欠けているために、酒井の主張を十分に達成することは難しいのである。以上。

以上、と書いてしまったが後日になって付け加える。酒井が上記の難点を考慮したうえで「レポートとは学術的問題を扱う」という趣旨のことを述べているふしはない。たとえば著者が「良いレポートの見本」として挙げた事例にも、すでに存在する学術論文や著作と「同じ内容」を主張してしまっている箇所は確実にあるはずだが、そのことへの考慮は特にない。あるいは「多くの人が解決を望んでいることが学術的問題の条件である」と述べる著者が例として挙げる「恋をかなえる必勝テク」にしても、すでにそれを論じている無数の文献(先行研究)が存在するだろうことを特に考慮しているふしはない。なので、結局「レポート課題」の場合だとその「学術性」にはあまりうるさくない、と見なすしか、学生の側にできることはない。それについて論じたり言及したりしている学術的論文や著作がすでに存在していることがそれを学術的問題にしているわけだが、それがそのまま、学術的意義がありかつそれらと目だった「重複」(つまり偶然同じことを主張している箇所)が無い文章を書くことを困難にしている。学術的である話題ならば、まず間違いなくすでに誰かが言っていることと重複すると見たほうが良いくらいなのだ。だがそれの回避がそれほど易しいとは筆者には思えない。

酒井の態度からみる限り、「レポート」ではその点は大目に見てもらえると見るのが妥当だろう。つぎのことができていればおおむね問題ない。まず、タイトルからしてあまりにも「重複」(つまり偶然同じことを主張している箇所)がありそうな「日本語で書かれた書籍」くらいは何とか目を通して、それらとの重複は無かったことを確認する。あるいは「幽霊と妖怪の違い」などという基本的な問題をもし扱うなら、小松和彦宮田登といった「最低限押さえておくべき学者」の代表作くらいは一瞥して、自説との「重複」が無いことの確認をとっておく。そのために、それらの文献だけは参考文献一覧に入れておく、学生にできることはここまでだろう。そして、そういうリスクのある文献を調べることが、そのままその内容が「学術的」であることの主張にもなっているのだ。つまり、自分で独力で考え自分で独力で調査などを行なったものが学術的になるわけではない。その問題なり結果なり過程なりがすでに誰かの発表した学術的著作と「偶然一致する箇所があるかもしれない」というリスクがあることこそが、それを「学術的」にしているのだ。なので、学生が可能な範囲でその裏をとったものであり、かつちゃんとした問題解決になっているならば、「レポート課題」ならばそれ以上は要求されないと見てよいだろう。「レポート課題」は「人類にとっては解決済みであっても学生個人にとっては未解決の問題」を扱って良いだけでなく、「既存の学術的著作物と“一致”してしまっている箇所があっても、ある程度文献調査をして回避の努力をしたうえでなら、それは許容される」と見ても良いのだ。ただし卒論ではそうはいかないが、その代り、指導教員の熟知している分野に限定して「重複」が無ければ問題はない、というふうになる。たとえば卒論が都市社会学であるなら、社会心理学の論文との重複があってもあまり気にしなくてよい、というふうになる。

酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために』

これからレポート・卒論を書く若者のために

これからレポート・卒論を書く若者のために

 酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために』(2007、共立出版)は高校の図書館に入っていて良い本だ。

その理由を比喩で述べるとこんな感じになる。世の中には、化粧やひげそりを鏡を見ないで行なう人はあまりいない。しかしレポートを書くときになると、それに近いことをしている人がけっこう多い。しかしそれではきっと失敗するから困る。そこで、レポートを書くときにも、「鏡を見ながら化粧やひげそりをする」のと同じような態度で臨むにはどのようにすれば良いか。つまり、読み手である大学教員から見たときの印象を書き手が共有しながら書くにはどうすれば良いか。それが知りたくなる。それを説明した本がこの本なのである。それだけではない。この本と似たような趣旨の本は多いが、その中でもおそらく抜群に読みやすくわかりやすいのがこの本である。また明らかに間違った主張や、おかしな書き方の押し付けもこの本にはあまり見当たらない。つまり悪い内容があまり見当たらないという点でも良い本のほうなのだ。

しかし、問題もたくさんある。この本が「こう書きなさい」と主張する内容のうち、半分くらいはレベルがあまりに高すぎる。それを全部実行できたら、「本屋で売れている学者の本」くらいの内容におそらくなってしまうだろう。というのも、売れている学者の本というのは、「ふつうの学者が言わないような斬新な内容」と「ふつうの学者よりもはるかに読みやすい日本語」で書かれているからこそ売れていることが多いからだ。日本語のうまさはまだしも、斬新な内容のほうはそう安直にまねできるわけがない。また、内容にも文章の読みやすさにも両方とも気を使って書くことが時間の制約が多いレポート課題でできるわけもない。

もう一つ問題がある。この本の著者はキーワードの選び方が少し独自すぎる。だから、この本に書かれている内容をこの著者のことばで要約すると、その要約文では「言わんとしていること」があまり伝わらない。たとえば、著者は「なぜ」と書くのがふつうであるところで「どうして」と書く。これだと「どのようにして」と紛らわしい。あるいは、「問題」「問題意識」「着眼点」などのキーワードはこの書のなかでは固有の位置づけを与えられている語であり、この語が一般的に含意する内容よりは狭くまた特定化されている。なので、これらを用いて著者の主張を要約したとして、その要約文が一人歩きしたときには、著者の意図が伝わる保証がない。つまり、著者は内容や文章の書き方の点では第三者の立場からみて良いものを書くことを主張しているが、その際の「単語の選択」の点ではそこまで第三者視点をとれているわけではない。つまり、著者の指示に従っていけば「一般的な内容を一般的な文章で」書くことはできるが、「一般的な用語法で」書くことまではできない。著者自身がその点で少しゆるい姿勢だからだ。とは言え、それはつまり著者の言いたいことにぴったりあてはまるようなお誂えむきの用語があまり存在しない、ということでもある。だから著者の責任だけではない。しかしともかく論文を書くときの「単語やキーワードの選択の良し悪し」という問題はこの本ではあまり触れられていないことは確かである。

あとこの本は横書きで書かれている。ということは縦書きで書かなければならないジャンルのレポートや卒論ではあまり当てはまらない内容や不足している内容があるかもしれない、ということが推測できる。少し気をつけたほうが良い点だと思う。

しかし全体として見ればこの本は、良いことをたくさん述べている。そして良くない内容をあまり述べていない。なので、この本に従って書くことがもし可能ならば、その結果として良いレポートや論文が書ける可能性が高い。この本は、それだけの志の高さをもち、また解説もユニークで端的な事例が多くわかりやすい。筆者はあまり調べていないで言うのだが、これだけの本は類書が他にあまりない。この本の内容は、高校生が進学する大学を選ぶときや、高校を卒業して働いている人が、大学教員の書いた本を読むときにもきっと参考になる。というのも、大学で教えている人や研究している人の発想がこの本でも共有されているからであり、それは高校までの教育機関だとあまり分からない事柄なのだ。

この本を高校の図書館に置いた方が良い、その他の理由を二つ述べる。一つはこの本は三上文法的な発想で文章を書くことを主張しているということが挙げられる。中学校では現代日本語の文法は橋本文法に近いものが教えられているため、それ以外の文法を知るとかえって混乱する可能性がある。だから中学校の図書館に置くことが良いとは言い切れない。しかし高校ならば、現代日本語文法の学力テストなどはおそらく無いはずである。仮にあってももう重要度は低いし、内申書を気にする必要もない。だから高校生になってからなら、三上文法やあるいは大学での日本語学の主流である寺村文法を知っても、学業の邪魔にはならない。そして、多くの場合、その文法を少しだけかじっていると、書く日本語がそれだけで少しうまくなるのだ。そしてこの本もまたそういう傾向の一例だというわけだ。高校では現代日本語文法を「大学生向き」のもので学ぶ自由があり、それを体現したこの本は、だから高校の図書館にあって良い。あった方が良い。そう言える。

もう一つの理由はこうだ。この本を読むと、現代文という科目で読まされることになる文章に対して、「文章としてうまいか下手か」「読者に対する説明がうまいか下手か」という観点を、高校生のうちにもつことができる。もっとも、そうすることで現代文の学力が上がるかどうかはわからない。むしろ、現代文で扱われる文章の下手さに呆れたり、出題者によってほどこされた加工が読みづらくしていることに気づいて呆れたりと、逆効果かもしれない。でも、それが仮に現代文の学力を下げることになっても、全体的にはむしろ良い効果を生むことになるのだ。まず、なぜこの本の内容が高校までの授業で教わることのできない内容だったのかがわかる。つまり、それは現代文の読解と両立しづらいからなのだ、ということがわかる。それだけではない。にもかかわらずそういう現代文を高校でやることの意義もわかる。現代文で読まされる文章の中には、文章が下手で説明のしかたも下手だとしても、あるいは出題上の加工によって結果的に下手な文章同然になってしまったとしても、内容だけは良いというものはある。その場合、内容自体は自分がレポートを書くときにも参考になる可能性がある。特に大学進学者の場合、どうせ大学に入っても、「文章も説明も下手だけど内容だけは良い」という文章はたくさん読まなければならないことになるのだ。だから高校や大学入試の現代文は、そのための練習なのだと割り切ることができるようになる。そういう割り切りや気づきのために、この本は良い手本となる。現代文というものを少し軽蔑しながらも意義のあるものとして見なすことができるようになるのだ。

だから酒井のこの本は高校の図書館に置いて良い。ただしタイトルは『レポート・卒論をこれから書く若者のために』のほうが良いはずだ。この本の内容からはそうなるはずだ。