高校の図書館で良い頭になりたい

「こういう本が高校図書館に入っていると生徒(である自分)の頭が良くなるんじゃないか」という書籍を、高校生になりかわって提案してメモしていきます。

野矢茂樹『入門!論理学』:知的自衛のための武器:相手の論理ミスを見つける能力を高める

入門!論理学 (中公新書)

入門!論理学 (中公新書)

 野矢茂樹『入門!論理学』(2006、中央公論新社)。

初出に少し補筆した。(2018.09.18)

この本は、問題を解いて解説を読むことを中心にして読むと良いと思う。その際わかるところだけ相手にすることを高校生には薦める。そのくらいで全然違う。「少しは読んで、少しはわかった」のとそうでないのとで、すごく差がある。なぜか。日本の大学では論理学の講座がちゃんとした形で整備されていなくて、だから論理学の「初歩だけ知っているアマチュア」の層が薄いからだ。だから、この本を少し読んで少しだけこの本を吸収すると、とても効果がある。

日本は論理学が制度的に重視されている国ではない。なので、日本の大学では論理学の専門家を輩出する部門はほとんど無いに近い。その結果として、著者の野矢も含め、論理学関係の著者のほとんどは論理学の専門家ではない。彼らの過半数は哲学研究者だ。ただ、彼らが研究している西洋の哲学者には論理学者の兼任者が多いのである。そのため日本の哲学研究者のいくらかは、否応なしに論理学の内容にも通じることになる。そのため日本でも論理学に詳しい有識者として選ばれることになり、論理学の書籍の執筆の出番が回ってくる。まずこの状況を押さえておこう。念のために言っておくが、この状況自体には問題は全く無い。問題はここからだ。

日本に論理学の専門家を輩出する制度が整っていないことから、次のような事態が生じる。まず論理学という学問の存在を知らない人が多い。次に存在は知っていても、それをどこで教わるかを知らない人が多い。内容自体を知らない人はもちろん多い。と言うか、知っている内容はあってもそれが論理学のコンテンツであることを知らない場合が多いのだ。反例として、20~30年ほど以前に、日本の読書人層の間ではゲーデルという論理学者の名前が流行ったことが挙げられる。しかしもうその時代もかなり過去だし、影響があったのは論壇で話題になるような本を読む層に限定されている。それに論理学者というよりは一般的な数学者だと思った人も多いはずだ。要するに、学歴が高くて偏差値が高い人であっても、論理学を論理学として知っている人は限られている。文系はもちろんだが、理系であってもなじみのある人は少ないだろう。このため、論理学の初歩を知っていれば防げるような論理ミスをする人は少なくなくて、それは学歴不問・偏差値不問なのだ。

この本の中でも私が見たとき、論理ミスに近いように感じる箇所が一つだけあった。p11で、「論理的な人は非常識だ」の対偶を「常識的な人は非論理的だ」と著者の野矢は断定的に書いている。しかしこれは少しアウトのように感じる。「論理的な人は非常識だ」の対偶は「非常識ではない人は、論理的というほどではない」くらいに留めておくのが良いと思うからだ。これは日常言語の感じ方・使い方によるし、状況にもよる。ともかく、対偶は即「常識的な人は非論理的だ」になる、と断定するのは筆が少し滑り過ぎだろう。このようなタイプの論理ミスや断定し過ぎは、他の有識者が書くものの中にこそ時々見受けられるものだ。

論理学に高校生が少しだけふれた方が良い理由は、論理ミスを防ぐことにまずはある。まず他人の論理ミスに気づき、それに惑わされないようにできる。学者の書くものや偏差値の高い人の書くものであっても、論理ミスをしている可能性は充分あるから、これはぜひ必要だ。次に、自分の論理ミスを防ぎ、他人から突っ込まれる余地を減らすことができる。その結果ついでに数学の成績が上がる可能性もある。そして、その目的のために野矢のこの著書を最初から最後まできちんと精読して、自家薬籠中のものにまでする必要は、全く無い。世の中の多くの人は論理学の初歩すらもほとんど知らないのだから、そこまでやる必要が無いのだ。そうではなく、全然やらないよりのに比べて少しだけは齧るということがとても有益なのだ。

この『入門!論理学』には大別して二種類のコンテンツの系統がある。「問題」とその解説を中心としたコンテンツと、「証明」とその解説を中心としたコンテンツと、だ。この二つは全くタイプが異なるコンテンツだと私は思う。難易度も違うと思う。「問題」を解くときに使った法則を、「証明」では真偽不明のものとしてあらためて証明し直すのだ。この二つの系統ではいわば「次元」が違う。なので、多くの読者は最初に読むときは、「問題とその解説」を中心に読むと良い。その段階でまず問題に正解することを目指して解き、そして読む、ということをすると良いと思う。この段階で止めても、読んだことは無駄にならない。

この段階での読みに関して、一つだけ注意しておきたい点がある。この本の第4章は「ならば」という論理語を扱っており、ここで対偶・逆・裏を取り上げている。高校1年生の数学でおなじみである人も多いだろう内容だ。ところがこの「ならば」は野矢が強調するように、なかなか曲者であるようだ。p116にも書かれているように、少なくとも「この電車に乗り遅れるならば遅刻だ」というような原因と結果の関係を表す「ならば」には、標準的な論理学は適用できない。たとえば「対偶をとれば良い」という方策が通じない。だから、対偶をとれば真偽が判明するような「ならば」はかなり限定的な種類のものに限られるのだ。これはむしろ理系の内容が得意な人向けの注意事項であろう。論理学は因果関係の分析にはまだ使える武器になっていない。このことを少し強調しておく。

この本のもう一つの系統である、「証明とその解説」といった流れはどうか。このタイプの内容はすでにかなり専門的な問題意識になっている。先に述べた系統のように、論理学の知識を使って問題を解くのではなく、論理学そのものを作る、という問題意識になっているのだ。そこでのプロセスとして証明が紹介されるが、その証明も、問題を解くときにすでに使った法則を、真偽不明のものとしてあらためて証明し直すようなものが含まれる。この系統の内容は、私はまったく必読ではないと思う。明らかに専門的な内容に踏み込んでいるからだ。ただ読んで無駄なわけでもない。その点を次に述べる。

「論理学を作る」というタイプの内容が、高校生にとってもまるきり無駄ではない理由は、ヨーロッパで学問をする場合だとそれが当たり前だろうだから、である。日本でそれに近い内容をやるとすれば中学校の幾何学だろう。幾何学は、定義と証明不可能な公理から証明によって定理を次々に導出して、一つの大きな体系を作り上げていく恰好をしている。この本の第5章で紹介されている論理学の体系作りも、それと同じタイプの知的営為である。ところが、中学校の幾何学でそのような証明に基づく体系作りという知的活動を伝えることをしている学校や教師はたぶんあまり多くない。そうだとすると、定義・公理と証明によって体系を作っていく、というヨーロッパでは当たり前の学問的活動を教わる機会は高校生にはほとんど無いことになる。理系だとまだ物理で教わる可能性があるが、文系にはまず無い。また理系の理論体系は因果関係を含むものだし、実験なしに理論だけで体系を作ることも限られるので、少し違ってくる。そのときに、この論理学入門書の第5章を中心とした「証明による体系作り」の内容は、またとない機会になるかも知れないのである。西洋の学問というものの、一つのモデルというかイメージを与えるものになるのである。「学問というものは、えてしてこういう方向性を目指したがるものなのか!なるほど」というふうにである。

この本は買ってからおそらく10年くらいになるが、未だにちゃんと理解できていない自信がある。「家庭教師をして!」と頼まれても教えられない箇所がきっとあるだろう。未だに「論理命題」と「推論規則」の違いがよくわからない。p152に書いてあるにもかかわらず、である。

p146に掲げられた、折に触れて立ち返ると良いとされる「標準的な命題論理の体系」という表の読み方も、今回読み返してようやくわかった気になれた。たとえば選言の除去則「AまたはB、Aではない→B」という関係を、こう読むとわかりやすかった。「XはAまたはBに含まれる、Xが含まれるのはAではない→Xが含まれるのはB」と、こうである。たぶん間違っていない読み方だと思う。

ついでに言えばこの「→」と「ならば」とは一応別物であり、しかし証明によって同じに扱って良いという話になっていたことを、今まで読み落としていた。この「→」は最初p58で導入されるときには「ならば」という言い方を使っておきながら、そこで巧く断定を避けていたのである(「こう書きましょう」(p58)というふうに「書き方は別」という仕方で導入したのである)。

こんな感じで、私はまだまだこの本の内容について初心者クラスだと思うが、それでも高校生に推薦はしておきたい。「論理学をばっちり踏まえた学問」と「論理学を踏まえた上であえて逸脱している学問」とを足し合わせて、西洋の学問の一~二割くらいだろうか。その種の学問には入り込むことができそうだからだ。

最後に一段落、追加する。ここまで「西洋」「ヨーロッパ」と連呼してきたのには少しだけ理由がある。それは論理学と、「アメリカ」の「経営学」流の「ロジカルシンキング」とは違う、と感じたからだ。「アメリカが起源ではない」ということを含めたいために「ヨーロッパ」「西洋」と書いてきたというところがあるのだ。さて「ロジカルシンキング」だと論理学とは違うと感じる理由の主なものは、「演繹」のような重要語の使い方が論理学と違うように見えるということだ。「見える」というか、そのロジカルシンキング本の著者によって紹介の仕方がまちまちなのだ。それはまるで伝言ゲームの果てに皆がバラバラの答を述べるようなありさまに近い。経営学的なアメリカの「ロジカルシンキング」は、ヨーロッパの論理学が伝言ゲームによってアメリカに伝わり異なる目的のために使われるようになったその結果、少し変質してしまったようなのだ。ロジカルシンキングも役には立つだろうが、その際にも、先に論理学をさらっと知っておいたほうが良いことはこれでわかる。また、もしかするとあと5年くらいすると、小学校から高校までの教育機関にも「ロジカルシンキングを学んできました」「みんなにロジカルシンキングを授けよう」という人が教師の顔をして現われるようになるかもしれない。そのときにも、先に論理学をかじっておいてからの方が良い。論理学のほうが本流だからだ。世の中には「論理学を源流としている」がしかし、「その源流のことをよく知らない」というタイプの知的活動も多い。そういうものに対しても、高校生が先に論理学を知っておけば何かしら「自衛」に役立つ、そう信じている。

酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版』を読む高校生に伝えたい事:書きたい内容がすでにできあがった人が「報告の仕方」を学ぶのに良い本

これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版

これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版

 酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版』(2017、共立出版)。

初出に多少補筆した。(2018.08.31)

酒井聡樹『これからレポート・卒論を書く若者のために 第2版』は高校の図書館に置かれたほうが良い本だ。ただし内容は、タイトルから期待できるほどに豊富であるわけではない。また、「そもそも書きたい内容が充分に思いつかない」という人には少ししか役立たない。が、それでも、良い本の方ではあると思う。内容面の批評は後述することにして、まず先に、この本が高校図書館に置かれた方が良い理由を述べる。

この本が高校図書館に置かれたほうが良い理由の一つめは、この本の内容は、高校で教えられることがあまり期待できないがしかし重要な内容だから、というものだ。また理由の二つめは、進学先を決める前段階のうちに大学で行なわれているレポート課題について高校生が知ることができ、したがって進学先を考慮することができる、というものだ。以下少し補足説明する。

この本の内容は高校で教えられることが期待できない、と述べた。期待できないのは主にこの本の第4部「日本語の文章技術」の箇所だ。もし、この内容を教える高校教師がいるとしたら、それは国語・英語以外の科目でであり、たとえば理科や社会科や芸術・体育等の科目でであるだろう。そして、それらの科目でレポートが課される場合だろう。要するに、国語や英語という教科ではまず教われない内容だ。つまり、高等学校では「言語」以外の分野の教師が教える場合でないと、この第4部の内容が教えられることは期待できないのだ。

この本の第4部の中核にあるのは、本多勝一氏著『日本語の作文技術』に書かれた内容であり、本多氏のその本は三上文法という文法の直接的な影響を受けて書かれている。その本多氏の著書のまさに影響を受けた箇所を、酒井のこの書の第4部もまっすぐ受け継いでいる。三上文法というのは、日本語教育学やそれと連動しているタイプの日本語学では、現在だとある程度以上前提になっている見方である。これらは大学の学部よりは主に大学院で教えられており、日本語を学術的に研究する者の間では常識と扱われているような内容である。と同時に、これらの分野を専攻した者は、橋本文法という文法を唯一の正解として強制的に教えなければならない中学校までの教師にはなりたがらないだろう。また反対に日本語文法を教えるカリキュラム自体が存在しない高校の国語教師にもならない(し、なれない)だろう。なので、三上文法を知っている者は、日本語をアカデミックに研究する研究者の一部にとどまり、高等学校までの教師になることはほぼ無い。だから高等学校での教育内容にはまず絶対還流されない。

この本の第4部の内容は英語の教師が教えることもあまりなさそうな内容である。三上文法では「主語」という呼び方を原則として用いない。またその「主語」と呼ばれることのある要素が日本語文法の中核であるとも考えていない。では三上文法が重視しているのは何かと言えば、「主語」ではなくて「主題」である。だから、酒井のこの本もそうなっている。このような文法を、英語の教師が理解して賛同するケースはあまり多くないと思う。英語の理解にはあまり役立たなさそうだからだ。特にとりわけ、言語学ではなく英語教育学や英文学を専攻した者が英語教師になる場合なら、三上文法を重視することもなくそもそも三上文法を知らないという可能性が高いだろう。

そういうわけで、第4部の内容を高等学校で教わる可能性というものが、高校生からは体系的に奪われているのである。そして、機会が奪われているその内容というのは、「日本語文法についての学術的な知見の蓄積」と整合している。ここで高校生の現実に立ち返ろう。周知のように現代文という教科は、教師が大学で学んだ国語学や国文学の学術的な成果を教えるものではない。そんな学術的な内容は現代文という教科ではまず教わることができないのだ。まして、国語教師が学んでいない三上文法なら尚更教われない。そのため、この本は高校図書館に置かれた方が良いと言える。もちろんこの内容を知っていると文章が巧くなりやすいからでもあるが、その理由からだけではない。そもそも学術的な知見と整合している日本語に関する内容が紹介されているという時点ですでに高校生にとっては稀であり貴重であるのだ。そのため高校の図書館に置かれたほうが良いのである。

この本の第4部の内容が国語教師によって高校生に教えられる機会がまず無い事情には、実はもう一つある。その事情とは、第4部の内容「日本語の文章技術」と、高校で行なわれている「現代文の読解」という課題とはまず絶対整合しないから、というものである。この事情も酒井のこの本のなかで、勘の良い読者にはわかるように示唆はされていた。しかしもちろん明言はされていなかった。なので、以下蛇足のようでも述べておく。つまりこうだ。この本の第4部で「読みやすい文章の書き方」を言わば「大学生の義務」として教わった者ならまず絶対に思う内容がある。「なぜ現代文の授業や大学入試の出題は、読みやすい文章ではないのだろうか?」、これである。その原因はわからない。が、わかることが一つだけ確実にある。「現代文の読解という授業」と「読みやすい文章の書き方」とを同じ教師が同じ時期に生徒に教えることは不可能である、ということだ。なぜなら「なぜ読みやすい文章の書き方をちっとも守っていない文章などを読解しないといけないのですか?」と生徒から苦情が出るに決まっているからだ。と、そういうわけなので、この本の第4部の内容が国語教師によって生徒に教育される可能性はまず無い。だから高校の図書館に置かれる価値は大いにあるのだ。ただし念のために述べておくと、同じ事態は実は大学でも起こりうる。「なんで大先生の論文はあんなに読みにくくて下手な文章なのに、自分のほうは読みやすい文章を書かなくてはならないのですか」という感想をもつ機会は豊富にあるからだ。結局はそこで「少なくとも自分は読みやすく書かないと埋もれるから、損だ」と損得で捉えるしかないと思う。

なお念のために補足しておく。読みやすいのとわかりやすいのとは異なる。酒井のこの本は読みやすいが、しかしすべての箇所がわかりやすいわけではない。というのもたとえば「説明」「論理的」「どうして」といった語句の使いかたがわかりやすいとは言えないからだ。これらの語句は二義的であったり人によって使用が異なっているものであったりするものだから、どの用法に従っているのか瞬時にわかるように使うにこしたことは無い。が、酒井のこの本はそこまで端的にわかりやすくはない。

さて、この本が高校図書館に置かれたほうが良い理由の二つめとして、次のことを述べた。すなわち、大学で行なわれているレポート課題について、進学する前段階で高校生が知り進学先を考慮することができる、という事柄だ。これについて以下補足する。

進学予定の高校生があらかじめ知っておいたほうがよいのは次のことだ。すなわち「大学でのレポート」というのは「高校までの何に近いのか」「高校までの何と比較すると良いのか」を知っておく、ということだ。と言っても、実際には「高校までに体験したなかに近いものが無い」場合も多いだろう。ともあれ以下述べる。レポートというのは、両極端に違う要素の足し合わせで出現した変な文化である。まず著者である酒井の意図に沿った説明からしてみる。片方には「論文に似たレポート」というのがある。もう片方には「論述試験に似たレポート」というのがある。著者の酒井が出している「解答レポート」/「説明レポート」という区分もネーミングがわかりにくいが、それだった。「論文に似たレポート」というのは「自分で問題を提案して自分で解決しようとする文章」だ。それに対して「論述試験に似たレポート」というのは「他人に与えられた問題を自分で解決しようとする文章」だ。

ところがレポートというものは、「自分で提案した問題」と「他人に与えられた問題」という二分法に分類しただけで理解できるものではない。レポートという単語は、文字通り受け取れば「報告」「報告書」のことだ。さて、何を何のために報告するのか、である。おそらくそれは「何月何日の何限目に、この大学の施設とお金を使いました」という「事実」に対する「報告」なのだ。つまり、実験施設を授業時間内に使用して行なわれるタイプの授業は、自動的に「報告書を書く義務」が生じるようにできているのだ。これはまあ筆者である私の推測でしかないが、当たらずとも遠からずであろう。「大学の金と授業時間をまとめて使うような授業には必ずレポートの義務が付いて回る」、この事情こそがレポートという変な文化を理解する鍵である。つまり、「自分のやった事と、その結果発生してしまった出来事」をそれ自体として報告する義務があるのだ。すなわち、大学でのレポートを分類する重要な項目の一つには、「やった事・発生した事を報告する報告書」の要素が強いものか弱いものか、というものがあるのだ。

この本の存在意義を明確にするためにもうひと押しだけしておく。上記のような「授業時間に学校の金を使って行なった実験や実習」というものを自分の提案した課題を解決するためにではなく、教師に与えられた課題を解決するために行なう場面というものが出てくるものだ。しかしにもかかわらず、このときの報告書というものは「自分が提案した問題を自分で解決する」という形式で報告しないといけないのである。つまりレポートというのは、このように儀礼性の高いものなのだ。他人に与えられた課題を自分で提案した課題のようにして報告しないといけないのだ。酒井のこの本が必要となる理由の一つは、レポートにあるこのように高度に儀礼的な面に対応しうることにある。

以上の三段落をまとめてしまえば、次のようにするほうが高校生にはわかりやすいだろう。大学のレポートを想像するときには三つの項目を考えると良い。一つめ。「大学の金を使って自分のやった事や発生した事を報告する報告書」の要素が強いものと弱いものとがある。二つめ。「自分で問題を提案して解決する論文」の要素が強いものと弱いものとがある。三つめ。「他人の提示した問題を解決する論述試験」の要素が強いものと弱いものとがある。二つめも三つめも両方強い場合は、「他人の提示した問題の存在を前提して自分が問題を提案する」という度合いの強い場合である。反対に二つめも三つめも弱い場合というのは、「問題を解決するというよりは、考えなしに単に知っていることや事実を書き並べる」に近い場合である。というわけでこれはレポートのもつ要素の分類でもあるが、同時に「送ることになる大学生活」の分類でもある。大学といってもいろいろであり、その生活も様々だ。だから「大学に入ったらどういう課題が待っているか」も大学のどういうコースを選ぶかで全く変わってくるのであり、この本はその予測のための情報源の一つとしても役立つのである。進学先の大学を選ぶ高校生にとっては、この本が高校図書館に入っていて欲しい本である大きな理由の一つだ。ただし高校生がこれらを理解するためのベースとなる体験がどの程度あるかは、相当に個人差があるだろう。

酒井のこの本は一つめの「報告書としてのレポート」の解説がいちばん多く充実している。他方、「論文としてのレポート」や「論述試験としてのレポート」の側面は弱い。なぜそうなるかと言えば、自分の専門分野に近いものしかレポートの書き方など誰も解説などできないからだ。もちろん自分の専門分野に近しいジャンルなら酒井は「論文としてのレポート」の解説も充実したものにできるだろう。しかしありとあらゆる分野に共通するような解説となると、酒井に限らずどんな専門家でも限界はあり、あまり立ち入った内容まで書くことはできにくいのだ。ただし付記しておこう。その弱点や手薄な部分で目に余るほどひどい箇所というのはこの本にはあまり無かったように思う。これも酒井のこの本が比較的すぐれている部分だ。「あまりにひどい部分が少ない」、これは長所なのだ。

ただしこの本が「報告書」の書き方がいちばん充実している、ということは、「書きたい内容が浮かばない」という者にはこの本はあまり役立たない、ということを意味する。この本は「書きたい内容がすでに充分に思い浮かんでいる」段階になって初めて役立つような本であり、その種の人向けの解説が充実している、というものなのだ。その点を理解するためには、たとえば、こういう事を考えてみると良い。この本では第11章を「図表の提示の仕方」という題目にし、そのような内容に充てている。「図表はこのように描かれていてはいけない」「図表はこのように描かれていると良い」といった内容である。しかしこの章には「そのために、図表を描くためにどのようにしてパソコンソフトを使いこなすか」といった内容は特にふれていなかった。のみならず「そのような内容にふれていない」ということも特に断っていないのだ。なので、読者がいざ実際に図表を描こうとしてもまず描けないことになり、人によっては慌てることにもなる。その段階の前にまず「パソコンソフトを使って図表を描くという練習」を丹念に積んでおかないと、この章の内容はまったく生かすことができないのだ。もし譬えで説明するならば、この本には「このように空を飛ばないと減点されます。このように空を飛べれば加点します。」といった内容が詳細に書かれてはいるが「ではどうやって空を飛ぶのですか?」という質問に対応するような答は書かれていない本なのである。そしてそれが書かれていないということも特に断っていない本なのである。しかしにもかかわらず、「まだ全然空を飛べません」という人もあらかじめ読んでおいた方が良い内容でもあるのだ。その点を特に注意喚起しておきたい。「大学入試が終わったらすぐにパソコンを購入して、キーボードの使い方に慣れておけ!」。

さて以下では、一文系読者としてこの本を読んでみて「補足したい」と感じた内容を、四点補足する。

補足その一。p9-11に書かれた「例5 なぜ日本の大学生は授業中に質問しないのか」を著者酒井は「良いレポート」の例として挙げていたが、私には「良くないレポート」の例のように感じられた。このレポートが良くないと私が感じた理由は、このレポートが「自己を主張すること」と「自己主張」との違いに鈍感なことだ。「自己主張」というのは「自己を主張すること」とイコールではない。「自己を主張する行為のうち規範的に好ましくないもの」だけが特に「自己主張」と呼ばれるのだ。だから、常識に反しない内容の講義を大教室でする教授のことを「自己主張している」とはめったに呼ばないし、火事を見つけて「火事だ―!」と叫ぶ人や電車の中で「痴漢です!捕まえて下さい!」と叫ぶ人を「自己主張している」ともめったに呼ばない。だからその語用的事実を踏まえれば、自己主張する人が日本でとかく非難されがちなのは何ら驚くべきことではない。なぜなら非難されがちなものだけを選択的にとり出して「自己主張」と呼ぶのが日本語の平均的な語用だからである。つまり非難されがちなものだけが取り出されて非難されがちであると指摘しているだけであるからだ。同様にしてこのレポートの梗概で書かれている「質問行動は自己主張の1つであるといえる。」(p9)という箇所は、そうやって断定して済む文言ではない。その主張の正当化を必要とする文言である。だから同値な言い換えにもなっておらず、かといって主張に理由も付されていないわけなので、この箇所を酒井のように「論理展開」(p11)とは呼べない。また次の点も重要なのに看過されている。それは「質問される教師にとって配慮が足りないと感じる質問行動か否か」という要因の存在であり、それは無視できない。もし他の受講生にとっては迷惑であっても、教師にとっては好ましい質問行動ならば、それを「自己主張」とだけ呼んで済ますのは不当であろう。こういった基本的な注意が足りないと私は感じたので、この内容を「良いレポート」として分類するこの本には賛成できなかった。ただし無論「良くないレポート」であってもちゃんと「レポートであること」は満たしているだろうし、それならある意味で問題は無いとも言える。

補足その二。p77-82にかけて「なぜその研究をやるのか。興味があるからやる、だけではダメだ。まだ解明されていないからやる、だけでもダメだ」という主旨の主張が述べられている。この主張はこの本の全編に言わば浸みわたっており、通奏低音をなしているかのようである。で、これだと何を書いていいのか分からず埒が明かないという学生も多い事だろう。そこで私は次の内容を提案しておきたい。「なぜその研究をやるのか。興味があるから、だけではダメだ。まだ解明されていないから、だけでもダメだ。確かにそうだろう。だが、次の場合ならほぼ無条件にOKだと思う。それは間違った事柄が信じられているからだ、というものだ」これである。で、ここで間違った事柄を信じているのは誰か。信じているのが専門家集団の成員であるのがいちばん良いが、そのケースを扱うのは専門家集団に馴染みの無い通常の大学生には難しい。大学生にもできそうなのは、「大学生やその周りの人や高校・予備校などの教師やメディアで見かける有名人たちや世間が間違った事柄を信じているから」というものだろう。あるいは直接間違っていない場合でも、「より正確に認識していないために、時には誤る危険がある」ならそれでも良い。ともあれ、学術的な内容でなければならないレポートにおいて、「間違っている認識をただす」というのはそれ自体が目的の一つになりうるのだ。他の理由や目的や意義なんて要らない。このような誤りうるような事柄の存在を提示して、「そしてこの研究では本当の事を明らかにします」と宣言すればいいのだ。この選択肢があることを私は提案しておきたい。

ついでに関連のある次の指摘も述べておく。レポートでの主張に理由を書けと酒井は述べ、私もそれにある程度同意はするが、主張に理由を述べるべき理由というのは、私の考えは酒井とは異なる。私の考えではその理由とは、「私の主張と対立したり著しく異なっていたりする主張というものがすでに存在するからだ」というものになる。つまりレポートでの主張に理由を書かなくてはならない理由は、「理由を書かないと、すでに存在する論敵を説得できないからだ」というものになる。これと、一つ前の段落で述べた「なぜその研究をやるのか、それは間違った見解を信じている者がすでに存在するからだ」という意義付けとは同じスタンスのもとにある。つまり、「謬見を正す」という意義のもと書かれた文章、である。その文章全体も論敵の説得のためであると同時に、個々の主張に理由を述べるのも論敵の説得のためである、ということになるわけだ。

補足その三。p12には「学術論文では必ず、人類にとって未解決の問題に取り組んでいないといけない。」と書かれている。しかし理系の学問ならこれは言えるのだろうが、文系の学問では絶対無理だ。つまりこういうことだ。理系の場合、たとえば生理学とか脳科学の論文が、物理学の基本原則とまったく整合していない、とか、未だに天動説を信じているかのような内容を述べている、などということはあり得ない。仮にそれらの学者が高校で物理を選択していなかったとしても、それどころか一度も物理学を学んでいなかったとしても、それは起こりえない事態なのである。なぜ起こりえないのか。その理由は、その学者が学んできたあらゆる学問が物理学の初歩や基本を大前提にして成立しているからであり、それとの整合性を保つように先人たちは慎重に学問構築してきたから、というものになるだろう。ここでは「伝統」とか「分業」といった要因や要素が高度に成功しており、物理学を知らない者であっても物理学の初歩に反したことを述べることがありえないように理系の学問というものはできているのだ。もちろんたとえば獣医学部の学生であってもあまりにも気が動転してごくまれに「ネズミの卵」などという不思議な語句を口走ってしまうことがあるにはある。しかし、これは留年ものの失言であり、また極めて例外的な事態だ。理系の学者が物理学の初歩に違反してしまうのもこれと同じくらいには例外的な事態であると見るべきだ。そしてこのような事態が極限的な例外であるような状況なら「人類共通の未解決の問題」という言い方に意義がある。判明している事柄に人類共通性があるからだ。他方、文系の場合どうだろう。理系での物理学や数学のような「共通の基盤」「仮に習っていなかったとしてもそれに違反してしまう可能性などおよそ無いような伝統というもの」などあるだろうか。西洋ならまだしも日本には無いのである。すなわち、文系の場合「学会共通の未解決の問題」というものを目指すのがせいぜいであり、またほとんどの場合これで良い。特に学部生の場合、いくら志と能力が高くても学部生のうちは魂を売ってでもこのレベルに留めるべきだ。「あらゆる文系の学問を総覧した結果見い出した、文系の学問共通の未解決の問題」など学部生の指導教員になる大学教員で理解できる者はまずほとんどいない。いても高齢のはずだ。ほとんど全員に近い文系の学者は、自分の属する分野や学会とその周辺分野の二、三でせいいっぱいであるはずだからだ。「あらゆる文系の学問を総覧した結果見い出した、文系の学問共通の未解決の問題」などという気宇壮大な事を構想し執筆するような人(かつまともな精神の者)は現在の大学制度で大学教員になどほぼなっていないし、今後ますます減る。それでなくてもまともな研究者がどんどん大学(特に国立大学)から脱出しているのだから、この減少傾向に歯止めをかけることは無理だ。話を戻すと、文系の場合「人類が現在進化論を知っているのはダーウィンのおかげである」などということが言えないのである。「えっ、進化論はラマルクに決まってるじゃないですか」「えっ、うちではメンデルの発見を進化論と呼んでるんですけど」「えっ、進化論って誰でも思いつく常識じゃないですか、参考文献なんて必要ないでしょ」「えっ、進化論、そんな話は初めて聞いた」「えっ、進化論ってあのキリスト教様に逆らった悪い奴が信じている宗教のことでしょ」とこのような架空の例のように、「人類共通の未解決の問題」など提示できないような状態になっているのが、文系の学問である。もちろん実際にこのような「不一致」が可視化されることはまずない。

最後に補足その四。酒井は「レポートでの主張には必ず理由を述べるべきだ」という主旨の主張を繰り返し行なっている。その際見落とさないほうが良い箇所を一つ指摘しておく。p51の「例8 物の感じ方に関する人間の心理」の箇所である。「同じ情景を見ても人によって感じ方は変わる。それはなぜであろうか。それは、私が考えるに、個人の心理が感じ方に影響しているからである。」という箇所に対して酒井は「こう主張する理由はどこにも書いていない」と否定的に述べている。このことから判るのは、酒井が理由と原因とを区別している人であるということだ。つまりこの主張は「Aの原因はXである」というものであり、だからこの主張にも理由を述べないといけない、と述べていると解しうるということだ。どういうことか。もしこの箇所が「Aの理由はXである」というものであるのなら、その「Aの理由はXである」と述べる理由も述べる必要があるだろうか。酒井は「無い」と考えていると思う。というのは、もしここで「Aの理由はXである」と述べる理由も述べる必要がある、ということを述べるのなら、当然「「Aの理由はXである」と述べる理由はYである」と述べる理由も述べる必要があるからだ。このように「理由の理由を述べよ」は直ちに無限後退に直面する。なので、p52の「すべての主張の理由を述べよう。」という主張は、「主張の理由をそう述べて良い理由」も述べよ、とかそういうメタレベルの話は一切しない、という意味合いに受け取るべきである。したがって、p51の箇所は「Aの理由はXである」というふうに酒井は捉えたのではなく、たとえば「Aの原因はXである」と捉えたものだと解釈するしかない。だからこの主張にも理由を述べよと酒井は迫ったのである。そういうわけで酒井は理由を原因とを区別して扱っている、ということが結論されることになる。もっとも実際は少々異なり、酒井は「原因」という語が通常使われる場面であってもこの本で極力使わないようにしており、だから「原因」と書くべき箇所も「理由」と書いている箇所が多いのだが、しかしこの箇所だけはそれだと例外的に矛盾してしまうので、この箇所だけは使い分けたと解釈するしかない、というべきだろう。「原因」と「理由」の関係は扱いが難しい。この点については私が以前書いたコンテンツ「サイト但書」の「「理由」/「原因」」の項を参照されたい。

ところで今ひとつ注意したい。理由と原因とは、接続詞・接続助詞だと同じ種類の語を使って表現するので、特に国語教師などはこの二つを区別しない傾向にあるだろう。高校生もそれに慣れているかもしれない。しかし、先に指摘した箇所はそのような国語教師的なスタンスではなく、理由と原因とを区別し、しかも原因という語を使わないというスタンスで書いていた。その前提での「すべての主張の理由を述べよう。」(p52)という主張だったのである。だから原因の主張もこの理由を述べるべき「すべての主張」に含まれるのだ。のみならずこの箇所によって「理由の理由の理由の理由も述べるの?」という疑問の可能性を封じてもいたのだ。そのように読むことを勧めたい。高校生だと現代文の試験で「登場人物がこのように行動した原因は何か、答えよ」とか日本史の試験で「関ヶ原の戦いで石田軍が負けた原因は何か、答えよ」と聞かれたりすることだろう。そして、そこで「○○が原因である」と回答すると「よくできました」となるだろう。しかし酒井の先の例は「それだけではダメだ。Xがaの原因であると主張できる理由も述べよ」と言っているわけだ。要するに、それまで高校生だった自分が回答を求められたことも、それどころか教師が解説してくれなかったことまでも、回答することが要求されているのが、酒井の考えているようなレポートなのである。そのことにこの箇所を読んだときに気づいてほしい。

あとは重箱の隅だと思うので補足は止める。